人の誕生の瞬間は誕生日? それとも「受精日」や「卵子や精子が作られた日」か

– 始まりと終わりとその理由考える大切

7月1日は私の誕生日です。誕生日に、ふと、私が誕生したのは本当に7月1日なのだろうかと疑問に思いました。

たしかに私が産まれたのは7月1日でした。しかし、その前の約10ヶ月間、私は母のお腹の中にいました。この期間、私は「誕生」してはいませんが、私は生きていたはずです。

では、母のお腹の中で私となった受精卵が誕生した日が、私の真の「誕生日」でしょうか。しかし、そもそも卵と精子がなければ、受精卵は誕生しません。

では、私を形成した精子と卵がそれぞれ細胞分裂によって作られた日が、私の「誕生日」でしょうか。この場合、私の「誕生日」は二日あるということです。

精子や卵などの生殖細胞のことを配偶子といいます。配偶子は減数分裂という特別な細胞分裂で形成されます。この減数分裂は男性の体内では、ほとんど常に行われています。なので、私自身になった受精卵が形成された日より数日から一週間ほど前が、私の「第一の誕生日」です。これは、私が産まれた前年の八月末のどこかということになります。

では、私を形成された受精卵の卵が減数分裂によって形成されたのはいつでしょうか。女性は、減数分裂は胎児のときだけ行われます。あなたが女性ならば、母親のお腹にいたときに、すでに全ての減数分裂を終えて、将来卵子となる細胞の元をすべて持って生まれてきています。

つまり、私を形作った卵は、私のお母さんがおばあちゃんのお腹にいたときに形成されたということです。私の母は3月14日生まれで46歳なのですが、私の「第二の誕生日」は47年前の1月から3月のどこかということになります。

しかし、これは奇妙だと感じずにはいられません。精子の形成された日はまだしも、母がこの世に生まれてもいない日を自分の本当の誕生日と思うことはできません。

結局、人が誕生する瞬間はいつなのでしょうか。どうしても、ある特定の日を、ある一人の人間が誕生した日と考えることは難しいように思います。また、これは誕生日にかぎられることではないようにも思えます。そして、そもそも人が「誕生」するとは、どのように定義すればよいのでしょうか。

例えば、歴史的出来事がそうです。鎌倉幕府の成立は何年でしょうか。「いい国1192作ろう鎌倉幕府」という語呂合わせでも有名なのは1192年です。これは源頼朝が征夷大将軍に任命された年です。しかし、源氏の勝利が決定的となった壇ノ浦の戦いは1185年で、全国に守護・地頭が配置されたのも1185年なので、最近の歴史の教科書は、鎌倉幕府の成立を1185年とするものが多いです。

しかし、頼朝が鎌倉幕府に侍所さむらいどころを設置したのは1180年ですし、頼朝が朝廷から東国の支配権を承認されたのは1183年です。鎌倉幕府の成立は、徐々に段階を踏んで行われたため、絶対的な鎌倉幕府の成立年というものはなく、歴史学者の間でも意見が割れているようです。

鎌倉幕府の成立年は、年の単位でも特定の年に定めることはできないため、鎌倉幕府が成立した「日」については特定ができないのは言うまでもありません。

また、鎌倉幕府が成立は、武士の台頭や公家化した平氏への不満といった要因が背景に存在します。単に、源氏が平氏より強かったから、鎌倉幕府が成立したわけではありません。源頼朝ひとりに注目すればよいのではなく、様々な要因が積み重なり、結果的に成立したのが鎌倉幕府なのです。

鎌倉幕府の成立だけではなく、大和政権の成立や建武の新政の崩壊日や、日露戦争の終戦日についても同じことが言えます。ほとんどの歴史的出来事は、その開始日や終了日をあるひとつの特定の日に設定したり、その出来事が起こった理由も、あるひとつの特定のものに定義できるものではないのです。

その証拠に、合理性を最も大切にする学問である物理学における最大の論題のひとつは「宇宙のはじまりはいつか」というものです。宇宙のはじまりは「いつ」であるかを知るには、宇宙のはじまりには「何が起こったか」を定義しないといけませんし、そもそも宇宙に「始まり」はあるかという問題にも答えないといけません。世界中の天才物理学者でも、この議題に答えを出すことができている人はいません。

あるひとつの出来事について考えるとき、私たちは何かがはじまった「瞬間」とその「理由」をひとつに定めようとします。言葉でのコミュニケーションや記述の中で、それが求められていることも、私たちがそうする理由でしょう。

戸籍に登録するときや、年齢を言うときや、小学校に通う年を定める年を決めるとき、ある人の「誕生日」がひとつに定められているとわかりやすいものです。誕生日をだれもが自分で決めてもよかったとしたら、同じ学年に生まれてからの日数が大幅に違う生徒が集まってしまうかもしれませんし、年金などの受給の際にも問題になってしまいます。

そのため、出来事が起こった日や起こった理由を無理矢理ひとつに定めることには利点があります。

しかし、どの出来事もひとつの理由のみによって起きるものではなく、様々な要因が積み重なり、それぞれが絡み合ったり相互作用し合ったりして起こります。このような出来事が起こる際の要因の連続性や重なりは注意していなければ気づくことはできません。しかし、これについて知っておくことや知ろうとする姿勢は大切だと思います。

原子力発電所の是非や、年金の受給開始年齢の引き上げ、憲法第九条改正などの社会問題に関して、異なる立場の人々の考えを聞いていると、それぞれがひとつ、多くても二、三の理由だけを根拠に挙げ、自分の立場が正しいと訴えています。しかし、これらの問題は、ただの数個の理由だけではなく、何十、何百という理由や根拠、またはデータや統計をもとにして論じなくてはいけないのではないでしょか。

たしかに、講演会や街頭での演説で、これらすべてについて述べることはできません。しかし、政治家や社会活動家に教えられなくとも、私たちは自分たちで情報収集をし、自分たちの頭で考えることができます。

全ての物事は、多数の理由が複雑に絡み合った構造体であるとひとりひとりが意識すること。これが、よりよい社会、よりよい未来を形成するために、最も重要なことなのではないでしょうか。

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